
鰐 口

鉄湯釜

六角堂
当該の鰐口は当山の本堂(改築前)に掲げられていたものである。
この鰐口は、永享六年(1434)興正寺の檀家たちが心を寄せて寄進した鰐口である、鋳物師名は記していないが、甲盛や圏線など室町時代の様式をよく伝えている。
近隣市内の鰐口の優品としては、湖南市正福寺所蔵鰐口が元亨二年(1322)の銘が陰刻され、滋賀県指定文化財となっている。湖南市の吉御子神社、甲賀市の寳徳三年銘(1451)の櫟野寺鰐口、応永二十六年(1419)銘の岩室区鰐口や信楽町の文安五年(1448)銘の新宮神社鰐口がそれぞれ室町時代のものとされ、いずれも市指定文化財の指定を受けている。
外区に見られる興正
寺とは慈音院の寺号であり、所在地を移動していない室町時代の在銘鰐口として貴重である。
(時代)室町時代
(銘文)外区に下記の銘文が陰刻されている。
(右廻り)近江州甲賀上郡杣寺庄興正寺鉦口
(左廻り)永享六年甲刀(寅)二月廿七日諸大
旦那同心
(下) 啓白
(法量)面径 30.6
肩厚 8.0 総厚12.4(単位cm)
(品質・形状)
鋳銅製。両面同文。甲盛はあまりなく、子持筋
に より撞座区、内区、外区の三区に分つ。
外縁部には二条の圏線を巡らす。撞座区ぶは十二
弁の蓮弁からなる蓮華文を鋳出し、蓮子九個を表
す。目の出(1.8cm)、口唇(1.1cm)は比較的少
ない。
両肩の耳(高3.9cm、幅6,4cmは両面会わせ式。
当該の鉄湯釜は寺庄の八王子大権現(現日吉神社)に伝えられたもので、祭礼に用いられた湯釜である。八王子大権現には外にも「天保十二歳辛子三月日」銘のある鉄湯釜一口も伝来しているが、鋳物師名は記されていない。(ただし天保12年の干支は辛子ではなく辛丑である。)
ところでこの鉄湯釜は寺庄村の北田兵次、長左衛門によって宝永元年(1704)に寄進されたものである。羽上面に陽鋳される「大工四良兵衛」から寺庄村鋳物師であった望月四郎兵衛の作になることが分かる。寺庄村鋳物師望月四郎兵衛については真継家配下の鋳物師として近世末の文献にみえることからその名が知られている。
口縁部内側に表された桝形は、特定の鋳物師集団の作であることを知らせる印(しるし)とされるが、同様の印は辻村鋳物師、長村鋳物師の作にも認めることができる。
甲賀市内では甲賀町の大鳥神社に「大工辻村田中藤左衛門」慶長7年(1602)の鋳出銘の鉄湯釜がり、辻村の鋳物師の作として甲賀市指定文化財となっているが、当該の鉄湯釜は望月四郎兵衛に関する資料が乏しい中にあって、本市において現存する四郎兵衛の作品として貴重である。
(銘文)胴部と羽上面に下記の銘文が陽鋳されている。
(胴部、右廻り) 八王子大権現湯釜奉寄進
(羽上面、右廻り)杣寺庄村北田兵次 長左門
啓白 大工四良兵衛
(羽上面、左廻り)宝永元甲甲天十一月吉日
(法量)口径 35.0
高さ 29.0 (単位cm)
(品質・形状)
鋳鉄製。口縁部に一条の平紐を覆輪状に巡らし、胴
部には上から二条、一条、一条の平紐を巡らしてい
る。羽(羽の出4.5cm)をつけ、胴部と羽上面に陽鋳
銘がある。口縁内部な桝形が表される。
羽上面右廻り 前段 「杣寺庄村北田兵次 長左門」の
銘が見られる。
羽上面右廻り 後段 「大工 四良兵衛」の銘が見られ
る。
甲南町の象徴的な建物で、六角堂と呼ばれ広く親しまれているこの地蔵堂は、池田村の大工、中村喜惣治が棟梁となって腕をふるった建物で、天明8年(1788)の棟札の写しが残されている。要所には欅材を使用し、頂上には宝珠を置き、重層下り棟の先端には十二支の意匠をもつ瓦を配し、南側に向拝を設け正面としている。向拝柱の左右につきでた木鼻や柱上部の木組みなどに、時代の特徴をよく表している。六角堂は県下にわずか二棟が知られるのみで、類例の少ない貴重な遺構である。
この地蔵堂の本尊は、木造地蔵菩薩立像(極彩色)で、杣の六地蔵巡拝の第一番札所として、近郷の信仰を集めている。
文化財
当山の文化財はいずれも甲賀市指定のものです